労働者日々の戦い 日通労働者連絡会で団結
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NIPPON EXPRESS 日本通運 尼崎アスベスト裁判 第15回期日(証人尋問3日目=最終) の報告
尼崎アスベスト裁判 第15回期日(証人尋問3日目=最終) の報告

2011年11月24日(木)午前10時30分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、延べ3日ある証人尋問の最後で、原告側証人の尋問が行なわれました。被告側弁護士はクボタ8人、日通1人で原告側弁護士は4人です。
最初のKさんが、「耳が遠いので大きい声でお願いします」と言ったので、裁判官は大きな声になり、よく傍聴席まで聞こえました。

〔・は原告弁護士、ゝは日通弁護士、ゞはクボタ弁護士の尋問、ёは裁判官の質問に答えて〕

まず、Koさん(被害者と同時期に働いていた元日通小型運転手)
・大物車庫に出勤し行き先が書いてある面着の札を見て(一次操配)、作業担当店所に行き詳しい作業内容の指示を受け(二次操配)、運行作業する。
・被災者5人と会ったことがある。クボタ神崎工場で働いていた。
・クボタ神崎工場では、ピット作業(石綿のカスをスコップで一輪車に積み運ぶ)、ハイ付け(石綿袋を組み合わせて積み上げて行く)、駅出し(トラックで駅まで運ぶ)などをしていた。
・ピットが主な作業で、積卸は手伝いだった。
・石綿原料の積卸は、トラックが2台入って来て、50kgの麻袋を2~3人で作業した。
・トラックの荷台から麻袋を足下に手カギで引っ張り落としていた。破れていたら粉塵が立つ。
・麻袋が、三分の一は破れていて、白い石綿が顔を出し見える。
・ハイ付けは、10本ハイ(タテ6本、ヨコ4本、交互に、170cmより少し高い)。
・昭和31年まではフォークリフトなく、手カギとノンコ(手カギより小さいもの)で、3~4人で作業。
・粉塵が出ているので口にタオルをまいていた。チクチクとして白くなった。
・窓はあったが、換気装置はわからない。防塵マスクはなく、石綿の危険性は教えてもらえなかった。
・年1回の健康診断で、左胸に胸膜クラークが見つかった。
・クボタ以外に石綿は扱っていない。
ゝトラックから卸す時間は小一時間。
ゝ年一回の肺に関する検査をしている。
ゝ健康管理手帳はもらっていない。薬はもらっていない。労災補償はもらっていない。
ゞピットとは、生産過程で水とセメント等の混じった白い泥状のものができるからスコップですくって処分。
ゞ倉庫作業の手伝いは、2日に1回くらい。
ゞ麻袋(ドンゴロス)は、茶色で、40×80cm、50kg
ゞ左手にノンコ、右手に手カギ。
ё一日に4台作業、4時間くらい手伝うことあった。
ё毎日ではない。
ё積卸する前に、大破1割+小破2割=3割は必ず破れていた。
ёトラックが入って来て作業すると、こぼれていた石綿の粉塵が立っていた。
ё危険なものという認識がなかったので会社にマスクなど要求していない。

次に、Hさん(肺がんで亡くなられた元日通運転手の妻)
・左手の甲に手カギでケガをした傷跡があった。
・白く汚れていた作業服を自宅に持ち帰り洗濯していた。
・日通を辞めた理由は、仕事がきつく、汚れが多く、将来考えて市バスへ転職。
・平成16年9月に肺がん手術→(麻酔が切れると幻覚症状が出た)→抗がん剤投与→(食欲不振、嘔吐、倦怠感)→再発→(脚のふらつき、嘔吐)→脳に転移→ガンマ線で小さくして手術→肋骨と骨盤に転移→抗がん剤投与→(胸に刺し込むような痛み)→食べれなくなる→平成19年8月に自宅で倒れ救急車で運ばれ死亡。
・モルヒネを使用すると酷い便秘になり、異常行動で9ヶ月、心身とも疲れた。
・労災申請した。
・タオルをマスク代わりにしていた。
・日通との交渉に夫も立ち会ったことがあったが、お見舞いの一つもなかった。夫が死んで遺影を持って行ったとき、会釈も手を合わせることもなく、「部外者だ」と言われた。
ゝ手術後、医師から「アスベストを扱っていなかったか」は聞かれなかった。
ゝ伊丹労基署は、最初はタバコと言っていたが、手術後は言わなくなり、労災認定を受けた。
ゞ作業服の持ち帰りは何日かに一度だったが必ず汚れていた。当時その汚れが何か分からなかった。
ゞ肺がんになってから、夫からいろいろ話を聞いた。
ゞトラックの上で、ドンゴロスに手カギで穴が開き、髪の毛や鼻の穴まで真っ白になった。
ゞ神戸でトラック積み込み→クボタで取り卸し。

昼休憩後午後から、Kiさん(中皮腫で亡くなられた元日通運転手の妻)
・日通尼崎港支店勤務。神戸港→クボタ神崎工場に石綿を運送。
・作業着の洗濯、白いホコリで真っ白。退職まで続いていた。
・阪神バスに転職(運転手~助役)→退職後、シルバーセンターへ。
・平成11年年11月に中皮腫と診断→抗がん剤→(毛が抜け、吐き気、だるい)→右肺全摘手術→(息苦し)→酸素ボンベを持ち歩き→(食べられない、眠れない、酸素ボンベ管を引っ掛けないようにトイレに付き添い)→右胸膿胸(膿が溜まるから吸い出すが次から次と溜まる)→痰が絡む→(呼吸が苦しい)→かわいそうで見ていられなかったから少しでも穏やかに最後を迎えて欲しいと医師にお願いしモルヒネを投与してもらった→平成12年6月死亡。
・平成17年にクボタのニュースを見て、アスベストが原因と分かった。
・労災不認定→新法で認定→日通に被害交渉で「退職者」だからと話しに乗ってもらえず、「アスベストじゃなくお米か何か運んでたんじゃないんですか?」と言われた。
・会社のために働いて40~50年後に発病で生命を落とした。それを「退職者だから」と・・残念!
・日通もクボタも誠意をもって責任を果たしてもらいたい。
・呼吸困難は不安と恐怖で一杯。
・看病した家族は辛い思いをして発病の不安を抱えて生活している。
ゝクボタから1kmの尼崎の潮江に住んでいたことがある。
ゞ夫から、勤務中から「クボタで仕事をしている。石綿を扱っている」と何度も聞いていた。
ゞ夫から「クボタ神崎工場の倉庫は、白いホコリが舞っている」と聞いていた。
ゞ診断のときはアスベストが原因だとは分からなかった。
ёクボタ神崎工場以外は聞いていない。製品をどこに運ぶとかは聞いていない。
ё日通を退職する前に仕事内容が変わるという話は、聞いていない。
ё給料の歩合制が変わるということで転職した。
ё作業着はほとんど毎日持って帰って来た。
ゝ作業着の汚れに、石綿以外もあったが、石綿が多い。

そして、Cさん(中皮腫で亡くなられた元日通大型運転手の妻で娘も中皮腫で亡くした)
・平成16年12月、夫は脚とお腹が膨らんで、平成17年2月に中皮腫と診断された。
・アスベストを取り扱う仕事していたとは知らなかった。医師から「アスベスト扱ってなかったか?」と聞かれ、夫に尋ねたら「「アスベストを運んでいた」と言った。
・医師から治らない病気だからと自宅療養。息子が薬を与えた。
・私は、メニエルがひどくなった。
・夫は腎臓が悪く、抗がん剤が打てなかった。
・ベッド上でのた打ち回って我慢していた。
・我慢強い人だったが、夫は苦しくて一度だけ「帰れ!」と言ったことがある。
・手、脚、お腹をさすっていた。
・平成17年4月30日死去。おかゆ「うめ~」と言って、ニコッと笑って・・・死んだ。
・マスコミの取材に、夫は「わしが生き証人になるから」と応じた。
・平成19年12月、娘も中皮腫に。娘は「子どものために死ねない」と二人抱き合って泣いた。
・平成20年8月、娘は48歳で死んだ。
・日通は、責任ある上の人が来んと、若い人だけ来て、何も言わない。
・日通とクボタに謝罪して欲しい。
ゝ結婚し尼崎市御園町に一年半住んで、娘はそのとき生まれた。
ゞ夫は、仕事の事は何も話さなかった。
ゞ朝日放送の取材から、夫の話を一生懸命聞き、勉強した。
ゞアスベストはクボタしか運んでいない。
ゞ夫は、日通以外の勤め先も話しなかった。
ゞ日通を辞めた理由は、明石に住んでいて通勤がしんどいと近くの会社に転職した。
ё共同住宅だったから、洗濯場も共同で、作業着を持って帰らなかった。
ё一度だけ、黄土緑色の作業着を娘に見せるために持ち帰ったことがある。
ёシャツ、パンツ、靴下、タオル、私の下着、娘のオムツを大きいタライで下洗いして共同洗場で洗濯。
ё私は、毎年レントゲン検査しているが、今のところ問題ない。

最後に、Oさん(肺がんで亡くなられた元日通大型運転手の妻)
・尼崎港→神戸の倉庫で積んで→クボタ神崎工場で卸す。
・ドンゴロスに入っていた。手カギ、粉塵舞い上がり、耳穴、鼻穴、全部真っ白になった。
・作業服は持ち帰らず、会社で洗濯していた。
・タバコは吸っていない。
・平成13年暮れ、咳が止まらなくなり、右肺に影があり肺がんと診断→平成14年4月25日手術。
・同年6月中頃から、熱が出て、息苦しく、日を追うごとに悪くなった。肺炎も起こった→食欲なく、倦怠感、もの言いにくくなった→息苦しく、酸素吸入→死去。
・「家に帰ってゆっくりしたい」叶わなかった。
・クボタショックで、労災申請。
・日通は、在職証明すらしなかった。証言もらって労災申請した。
ゝ在職中の定期診断で異常はなかった。
ゝ労災の受給額は?(こんな質問をして、日通弁護士は傍聴席から顰蹙を買っていた)
ゞ作業内容は、夫から直接聞いた。クボタで卸す。青、茶、白の石綿。
ゞ30年間で、ミツカン酢、フライアッシュ、アスベストの仕事をしていると在職中に聞いていた。
ゞ入浴は、日通大物車庫に浴場があった。
ゞレッカー車も乗っていたが、細かいことまで覚えていない。
ゞ3~4年に一ぺん検診しているが、私と子どもに異常は今のところない。

 以上で、すべての証人尋問が終わり、裁判長から、「最終準備書面を2月15日までに提出して3月1日(木)午後1時15分からの弁論で結審します。その前に、和解の可能性あるかどうか、12月26日午後3時に和解期日を設定します」と、説明があり、確認されました。

 閉廷後、敷地内で、報告ミニ集会があり、
 弁護士から「裁判所から和解案提示あると思うが、3月1日に結審し、判決はそれから3~4ヶ月かかるだろう」。 原告から「墓参りして臨んだ」「単語が出なかったが思ったことは言えた」「半分も三分の一も言えなかった。もっともっと言いたかった」「歯がゆい気持で一杯」「いい方向に向かうことを期待して」などの言葉があり、今西元全日通尼崎港分会委員長から「胸が痛む気持ち、当時、職場を知っている方が入院していたりして、何しろ40~50年前のこと、職場を語れる人を証人になってもらい、今日を迎えた。成果を出さなければいけない」、職場の問題を取り上げて声を上げたことで定年退職継続再雇用を拒否された梅川さんから「遺族の方々の証言を聞いて、日通は何と酷い会社か!と改めて思った、私も共に闘いって行きたい」と、勝利を確信しあいました。
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NIPPON EXPRESS 日本通通 エルダー(定年継続再雇用)不採用裁判 第1回期日
第1回期日に、法廷あふれる!

本来ならエルダー再雇用の初日だった9月30日の提訴から1ヶ月、初回期日が11月4日(金)午前10時30分大阪地裁610号法廷で開催されました。法廷は、25名以上の傍聴の支援で法廷に入りきれず、会社側は労担4名のフル出場でしたが肩身の狭い窮屈状態で、梅川さんに目を合わそうとせず渋い顔をしていました。
一人で担当する女性裁判官は、双方提出書面の確認のあと、次回期日を原告の森博行弁護士が「傍聴者が多いので次回も公開の法廷で」と要望し認められ、被告日通高野弁護士に「採用に至らなかった理由について12月9日までに書面を提出するように」と通告しました。

答弁書でも、
 不採用の理由を明らかにしない日通!

閉廷後、工事中の地裁内を出て堂島川縁の広場に集まり、森弁護士から解説をしていただきました。「継続雇用が原則。日通は選別基準が客観的で明確なのに、梅川さんには『仕事ができない』『呼んだ日に来なかった』『総合的に判断』と曖昧。答弁書にも不採用理由がなく、次回理由を明らかにすることになった。最近、『原則、希望すれば再雇用しなければならない』との大阪高裁判決が出されている」
 支援者から、「当然の権利を主張して嫌がらせを受けている。10年程の後には定年で拒否される口、勝利して欲しい」などの声が出されました。


第2回期日

*12月16日(金)
*午前10時30分~

*大阪地裁610号法廷


どんな裁判?(概要)

働ける状態にあり、希望すればエルダー(定年継続再雇用)になれると、会社からも組合からも説明を受けて、半年前に申請したのに定年の1ヶ月前に「仕事ができない梅川さんはエルダーになれない」と通告されました。65歳からしか年金が満額もらえない状況で、定年後の雇用継続は働く者の権利です。労使一体の恣意的排除は許せません。




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